ここで我々は、女児向けスーパーヒロインの代表、プリキュアシリーズへと目を転じる。
まずは想像力を少しお貸しいただきたい。強大な悪の猛攻に苦戦するヒーローがいたとしよう。そのヒーローはかつての英雄に助力を求める。しかし、その老 兵は過去の無残な敗北に打ちのめされ、戦う意志を失ってしまっていた。あなたの助けが必要だ、というヒーローを老兵は拒絶するのであった。
こんな話があったとすると、この老兵にはだいたい80%くらいの高確率の死亡フラグが立っている、と我々は見なすのではないだろうか。たぶん、ヒーロー のピンチを救ってその漢は死ぬ。そして死にぎわに「これで俺も負け犬ではなくなった」とか、死んだ戦友の名を挙げて「今お前たちのところへ逝くぜ」とかな んとか呟くのである。折れた心の復活、過去の清算、その引き換えの死、新たな世代に受け継がれる魂、こんなお約束のパターンが期待されるわけだ。
しかし、である。まさにこんな感じの流れで『ハートキャッチプリキュア!』の物語の本筋に絡むことになる月影ゆりことキュアムーンライトであるが、彼女 に死亡フラグが立ったという印象をもった視聴者はほとんどいないと思われる。子どもむけだから、ということではなく、物語の流れからして、直感的に「それ はない」と思ってしまうのである。これはなぜだろうか。
ここで「ヒーローは誰の幸福のために戦うのか」という問いに立ち戻ってみたい。歴代のプリキュアは誰の幸福のために戦っていたのか。そう、彼女たちは 「みんなのため」に戦っている。昭和ライダーと異なり、「自分以外のみんなのため」に戦っているのではないのである。プリキュアの「みんな」のなかには 「自分自身」も入っている。ここが肝心なところだ。プリキュアシリーズは「戦士であることが人生のすべて」という方向性を採用していない。プリキュアたち はあくまで人間である。彼女たちが守護する人類の未来のうちには、自分自身の場所もきちんと残されている。それでもなおプリキュアがヒーロー(ヒロイン) としての純粋性を高いレベルで保っていられるのは、彼女たちが少女であるからだろう。少女性(処女性といってもよい)が正義の純粋性を支えているのであ る。このあたりは、ジェンダー論的にも興味深いところである。
具体例を分析してみよう。『フレッシュプリキュア!』におけるイースからキュアパッションへの転生エピソードである。悪の尖兵が正義の戦士として改心す る展開を支える論理に着目したい。一般的なヒーローものでは、この種の改心は正義の心に目覚めることによって成立する。しかし、『フレッシュプリキュ ア!』はそうなっていない。東せつなは自分自身の幸福を求める心を自覚することによって、キュアパッションとなるのである。つまり、初登場の段階では、 キュアパッションはまだ、「みんなのため」に戦う、という段階に至っていない。それでも彼女はプリキュアに転生できてしまう。これはいわば、たんにエゴイ ズムに目覚めただけで正義なしにプリキュアが誕生してしまった、ということである。なぜこれが物語として成立するのか。
ここで、「みんなのため」に戦うプリキュアの「みんな」のなかには「自分自身」も入っている、という論点を想起されたい。これは、プリキュアにとって、 「みんなのため」に戦うためには、まず「自分自身」のために戦うことができなくてはならない、ということを意味する。自分自身の幸福を求めない者は、みん なの幸福を求めることはできない。繰り返しになるが、みんなのなかには自分自身も入っているからだ。それゆえに、まず東せつなはエゴイズムに目覚めねばな らないのだ。このあたり、昭和ライダーとはまったく違う。
さらに、これまた先に指摘した、少女性に由来する純粋さ、という論点にも着目すべきであろう。端的に言えば、プリキュアシリーズにおいては、「純粋な少 女にとって、自分自身の幸福はみんなの幸福なしに成立しえない」ということが疑問の余地ない当然の前提となっているのである。純粋な少女とは、そういうも のなのだ。そのため、東せつなは、自分自身の幸福を志向するエゴイズムから、ごく自然に、みんなの幸福を志向する普遍的な正義へと心の成長を遂げることに なる。この成長分が当然のことと見込まれているので、自分自身の幸福を求める心をもった時点で、東せつなはプリキュアとなりえたのである。これもまた、昭 和ライダーではありえないことである。
『フレッシュプリキュア!』から目を転じ、我々の問題に戻ろう。先の老兵の事例において死亡フラグが成立するためには、問題の老兵にとって、戦士である ことが人生のすべてになっている必要がある。その場合、心が折れて戦えなくなった者は、生きる意味のすべてを失ったことになり、「無様に生きながらえた」 属性を帯びるだろう。そこで、そんなキャラに「漢としての真の死に場所」を与えるドラマが期待されることになるわけだ。
ところが、先に確認したようにプリキュアシリーズは「戦士であることが人生のすべて」という方向性を採用していない。プリキュアが守る幸福のなか には、自分たちの幸福もきちんと織り込まれていてよいのであった。プリキュア道は、人類の平和と正義のために自己を犠牲にして滅私奉公したりするところま で要求はしないのである。プリキュア業とは別に、ちゃんと自分の人生設計をしていいのであり、その枠内でプリキュアすればそれで十分、十二分なのだ。そう いった了解が前提にあるために、我々は、『ハートキャッチプリキュア!』において敗北を経て生き残ったキュアムーンライトに「無様に生きながらえた」属性 を付与しない。そして、それゆえに、前述の展開は死亡フラグにはならないのである。それどころか、キュアムーンライトのかつての敗北が、自己を犠牲にする 戦いにこだわりすぎたため、とさえ描かれるのだ。プリキュアシリーズにおける自己犠牲の位置づけは、基本的には、このように否定的なものである。
”- ヒーローは誰の幸福のために戦うのか (via petapeta)