一点だけ。
たとえば、講義や講義テキストの英語化を進めてしまうと、
日本語の専門書が書かれなくなってしまう恐れがあります。
外国の専門書の邦訳も出版されにくくなるでしょう。
いま、ただでさえ出版不況で、自分で書くものにしろ、翻訳にしろ、
専門書を出版してもらうのって大変です。
出版社に専門書の出版をお願いするとき、
私は、たとえば、だいたいこんな感じで泣きつきます。
「来年、大教室の授業、三つ持ってます。
全部の授業でテキストにします、ハイ。
必ず受講者に買ってもらうようにしますおー。
ワタシの分野、もう大人気! 他の大学でも多くの先生がたが、
たくさんテキストや参考書として採用してくれるはずデース。
学生に薦めてくれマース。
絶対、学生マスト・バイ! だからお願い。
出版シテクダサイ。コノトオリデス。ゴショー
それでやっと専門書や、英語の専門書の翻訳を
ホソボソと出版してもらっています
(もちろん、著者にはほとんど儲けなどありません。
むしろ各方面への献本で赤字です)。
大学の授業テキストの英語化とか、講義自体の英語化がすすむと、
この種のセールス・トークも使えなくなります。
つまり、大学の授業という
専門書の唯一といってもいい
大口の需要先がなくなってしまうわけです。
出版社も商売ですので、合理的に判断します。
日本語の専門書(原著も、邦訳も)の出版を
徐々に控えるようになるでしょう。
こうなると、大学の教員も、出版してもらいにくいし、
授業で使うこともできないので、
日本語で専門的な本や論文を書くことをやめてしまうはずです。
その結果として、ごく近い将来、日本語は、
高度な学問の言葉ではなくなってしまうでしょう。
そして日本語は、各分野の専門的な語彙を失うこととなってしまいます。
知的な思考や議論が、日本語で行えなくなってしまうわけです。
で、結局、少し前に、小説家の水村美苗さんが
『日本語が亡びるとき』(筑摩書房)で、指摘した事態に陥ります。
つまり、日本語が、さまざまな専門的で
知的な事柄を論じられる「国語」ではなくなり、
旧植民地諸国の未発達の生活の言葉にすぎない
「現地語」にまで堕落してしまうという事態です。
藤井さん、中野さんは、『日本破滅論』(文春新書)で、
「結局、いわゆる現在のグローバル化とは、アメリカ化を目指して、
その実、フィリピン化してしまうことだ」
と書いています。
まさに慧眼。
そのとおりの事態が、
大学の「グローバル化」の先にもありそうですorz….。
- 【施 光恒】日本のフィリピン化 | 三橋貴明の「新」日本経済新聞 (via itokonnyaku)