「テキサス・チェーンソー ビギニング」鑑賞
もはや『トビー・フーパーの伝説的ホラー「悪魔の~~』という様な事を言うのもバカバカしい。これは『リー・アーメイ』という新しいジャンルが完全に確立された事を確認するための1本だ。
このジャンルはスタンリー・キューブリックによって発見され、誕生した瞬間にほとんど完璧に近い形で提示された。全く取りつく島のない絶対的な暴力を、自由自在、縦横無尽にふりかざす軍曹のキャラクターは、観る者に多幸感をあたえた。
この類い稀なる才能に惚れ込んだ映画作家は枚挙に暇が無い。ピクサーのディズニー配給CGアニメ「トイストーリー」ではプラスチックの軍隊の鬼軍曹として声の出演を果たし、デビッド・フィンチャーの「セブン」では鬼部長として、人のデスクに勝手に座って、そこにかかって来た電話に「オレのデスクじゃねえゾ!」と切ってしまう。
ピーター・ジャクソン「さまよう魂たち」に至っては鬼軍曹の幽霊としてアーミー、ネイビーとモーフィングでクルクルと色々な制服の鬼軍曹姿で機関銃を乱射するというサービス満点ぶりだ。これはサスガとしか言い様の無い。
上記した映画でも解る通り、リー・アーメイ出演シーンは監督の演出の範疇を超えた正に、全く取りつく島のない絶対的な暴力性でスクリーンを覆ってしまう。キューブリックなどはリー・アーメイのきらめきを発見してしまった瞬間からリー・アーメイ性を妨げる要素の排除という作業に徹したのではないだろうか?
しかし、最初に発見したキューブリックはともかく、以降、誰もがよもや「リー・アーメイ」というジャンルが成立するとは思わなかった。前作にあたる「テキサス・チェーンソー」も、リー・アーメイを配する事できらめきを得はしたが、他の映画同様ゲスト扱いの使い方に留まっていた。
しかし、今回は確信的にリー・アーメイ映画にしようとして、そうなっている。一応、従来のテキサス・チェーンソー映画の主役レザーフェイスは出はするものの、劇中ほとんどをカラス口の様なマスクで過ごしているし、喋れないし、まだ内気だしで印象にほとんど残らない。
リー・アーメイ映画とは。まずは腕立て伏せだ。意味も無くほとんど唐突に腕立て伏せが始まる。させられる方も最初の内こそリー・アーメイ映画である事へのとまどいを見せるが、すぐに取り込まれる。
そして人殺し讃歌だ。むしろ殺せない奴などケツ毛にこびりついた、拭き残しのクソ程の価値も無い。
最後に“バランス”だ。バランスはとても大事だ。リー・アーメイはバランスを司る男なのだ。
もはや観ていない人には何を言っているのか解らない文章になっているが、まずはこの「テキサス・チェーンソー ビギニング」を鑑賞すればよい。リー・アーメイが出ている間はとても幸せな気持ちになれる。それ以外のシーンはわりとどうでも良いという気分になる程に。
”- 2006-11-13 - ゾンビ、カンフー、ロックンロール (via rpm99)