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"デジタル技術の出現,インターネット環境に対応して著作権法がどんどん変わるようになった。 著作権法の最初の国際的なバージョンは1886年のベルヌ条約である。日本が加盟したのは1899年で,もう100年以..."

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デジタル技術の出現,インターネット環境に対応して著作権法がどんどん変わるようになった。

著作権法の最初の国際的なバージョンは1886年のベルヌ条約である。日本が加盟したのは1899年で,もう100年以上も前のことである。ベルヌ条約は以後ずっと継ぎ足し継ぎ足しできたが,1970年頃から死に体になった。ベルヌ条約をコントロールしているのはWIPO(世界知的所有権機構)という国連の機関である。ベルヌ条約には百数十ヶ国が加盟しているのだが,そのほとんどは発展途上国など著作権法にはあまり関心がない国である。著作権法に熱心なのはG8加盟国くらいのもので,他の国は著作権がない方がよいというのが本音で,数ではそちらの方が圧倒的に多い。1970年代は発展途上国の威勢が強く,しかも米国がベルヌ条約に加盟していなかった。 米国は独自のルールを持っており,著作権法も特許も世界標準と違う形になっている。まず,米国の著作権法には人格権がなかった。また,隣接権もなかった。ところが米国は,映画,出版,音楽,コンピューター・プログラムと世界最高の著作権ビジネスの生産国であり流通国であり消費国である。このような国が世界標準であるベルヌ条約には入らないで,勝手なやり方で1世紀以上も過ごしてきたということである。

その米国は,孤立していては国際的に影響力を持てないということで,1980年代末になって突如としてベルヌ条約に入ってきた。このために,おざなりの人格権を作り,ベルヌ条約の条件を充たしたということで,加盟してきた。

それ以来,ベルヌ条約の中での米国の存在感は圧倒的に強くなった。つまり,米国のルールがどんどんベルヌ条約の中に浸透してきた。

同時に1986年からウルグアイラウンドが始まった。ここでサービス貿易の障壁を低くすることが論議され,同時に,知的所有権についても同様の議論がなされた。その結果「知的所有権の貿易的側面に関する協定」ができて,これがもう一つの国際標準になったのである。この協定には「著作権についてはベルヌ条約の方法でいく」「ただし人格権を除く」と書いてある。いよいよ米国流のやり方が国際標準になったというわけである。

さらに1996年,WIPOが「WIPO著作権条約」「WIPO実演家・レコード条約」という新しい国際条約を作った。ベルヌ条約のインターネット環境,デジタル環境に合わせた版とみなせる国際条約である。ベルヌ条約を変えようとすると反対する国が多いので,ベルヌ条約はそのままにし,工業先進国だけでその上に2階部分を作ったということになる。これにより,新しい制度がどんどん作られる環境になった。その過程で,ビジネス関連の人たちはWIPOのあるジュネーブに詰め,いろいろとロビー活動をするようになってきた。

著作権の制度自体が変わりはじめ,米国流になってきた。権利の数も増え多様化してきたのである。



- デジタル著作権とコンテンツの活用戦略 (via tsuda) (via otsune)
2009-01-18 (via gkojay) (via mnak)

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