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- 日本語の終わりに 1 « ガメ・オベールの日本語練習帳v_大庭亀夫の休日 (via ginzuna)
このあいだ日本語で神の話をする必要があったので、日本語で考えてみたら「信仰」とfedeは全然ちゃうやん、と思った。
そう考えながら、ふとツイッタを見ると、十年間イタリアのど田舎に住んでイタリア語だけで暮らしているうちに頭がイタリア語になっているすべりひゆがまったく「fede」と言っていたので、ああやっぱし判るねんな、と考えました。
西欧語は言語そのものに神様の都合がすみずみまで行き渡っているが、日本語は違うようだ。
神が言語の語彙全体の外側にあるのは「絶対」の定義からも当然であるとして、西欧語は語彙がみんな神がいる方向を向いてしまっている。
あいだを端折って言うと、神様がいなくなると言語が分解してしまう。
西欧語で神様がいないのではないかという話をすると、ただの哲学仮説になって、「どっちでも同じやん」になってしまうのは、考えている当の言語全体の機能が神を前提にしているからで、前提を否定しようとする議論など虚しいものに決まっているのです。
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