中身(2010年9月16日)
朝から諸々の会議をこなしている。
宙ぶらりん、たなざらしになっている問題が山積だからだ。
例えば四月以降の懸案として文部科学省における『密室会議』で議論されてきた、朝鮮学校を高校無償化の対象とするか、否かの会議。
密室会議は8月31日、対象とするか、否かには『教育内容を問わない』という何とも信じられない報告書を提出しているが、対象となれば日本国民の税金が投入されるのだ。にもかかわらず、どのような議論で、そのような結論になったのかは一切、公開されないまま、与党・民主党の部門会議では『おおむね了承』という、これまた信じられない判断が下された。
まさに国民不在の議論だ。
少なくとも、我々は文科省の決定が行われる前に、その議論の中身を国民の前に明らかにすたいと決意している。
そして、こういった手続きがいかに『非民主的』かを問いたいと思う。
いったい民主党政権は、この国をどうしたいと思っているのだろう…。
我々は守りたい。
領土、主権、国柄、歴史、そして国民を守りたい。
それ以上に優先すべき配慮などあろうはずもないのだ。
『自由』には表裏一体として『責任』がある。
『権利』には表裏一体として『義務』がある。
同じように、
『民主主義』を論じるなら、表裏一体『国家』がある。
『平和』を論ずるなら、表裏一体『安全保障』がある。
その片方を曖昧にしたまま、耳触りのいい言葉だけを唱えることは、あまりにも無責任、もっといえば背信的である。
そして、そのような根幹的な問題を誤魔化してきたのが、自民党政権も含めての戦後体制である。
なんで、このホームページに、これほどまで多くの若者たちから『居場所がない』という悲痛な叫びが届けられているのか。
『自由』『平等』『個性』のスローガンで育てられてきた彼らが、なぜ、突然、社会から梯子を外されたような状態で路頭に迷ってしまうのか。
彼らからしたら、「こんなはじゃなかった…」という話だ。
それは『責任』とは何か、『結果平等』なのか『機会平等』なのか、現代社会で通用する『個性』とはどのようなものか、などを教えること、向き合うことを遠ざけてきた結果であろう。
就職難の今、リクルートスーツを着て企業回りをする学生たちをよく見るが、中には驚くべき学生がいる。
眉毛を必要以上に細く剃り込み(整え)、襟あしを長くしてボサボサ(にセットした)の頭髪で、スーツのズボンを腰ではいている(いわゆる腰パン)の男子学生。
それは、個性なのか、ポリシーなのか、理解に苦しむ。
彼らは、社会の中で生きていく自分をイメージできているのだろうか。
人柄は最高なのかもしれない。
能力は優れているのかもしれない。
しかし、それを知るには一緒に仕事をしてみなければわからないのだ。
就職難の対策として、政府は『新卒を三年間に延長する』などと言っているが、経営者からしたら冗談にしか聞こえないだろう。肩書きを延長したらきちんと就職できると、少なくとも今より門戸が広がる、などと社会で苦労したことのないエリートさんたちは思っているのだろうか…。
中身が大事であるということは、言うまでもない。
だからこそ、より短時間で中身を伝えることができるような状況を整える。
言葉づかいも、身だしなみも、自分の中身を生活に伝えるための手段なのだ。
朝鮮学校の問題も曖昧さという意味で類似している。
『教育の中身は問わない』?
なんだそれは、という感じだ。
なら、形式的に表面だけ繕えば国費を投入してもいい、ということなのか?
そもそも、教育こそ『中身』だろう?
それを『問わない』というなら、それは始めから教育ではない。
まず、教育内容、体制も含め中身をオープンな形で議論できる土壌が必要だ。
そして、その上で国費投入の是非を開かれた形で判断しなければならない。
これから文部科学部会でこの問題について議論する。
しっかりと議論してきます。
義家弘介
”- 参議院議員「義家弘介」OFFICIAL WEB SITE | 義家日記 (via ittm)