「我々には侍の魂が宿っている」というつもりはない。
「神の国日本は絶対不滅である」と力むつもりもない。
侍は遠い昔であり、元寇神風はさらに遠く、歴史教科書の一頁に過ぎない。しかし、それでも「イザ!」という時になれば、男も女も、子供も老人も、同じ気持ちで立ち上がるだろう。戦後の半世紀で、その「イザ」の定義が多様化し、バラバラになっただけの話である。誰の心にも「イザ」はある。
「一億火の玉総決起」は起こらないだろう。むしろ、そのことの恐ろしさを、彼等は知るべきである。個々人でバラバラである。しかし、それは決してマイナスにならない。目標を定めることを許さない、相手にとって一番厄介な存在となる。悪いことは言わない、今からでも遅くはない、日本人の草の根に火が着く前に、乱暴狼藉は止めよ。
一発殴られても、その微笑は絶やさない。
十発殴られても、首を傾げるだけである。
百発殴られれば、何故かなあ、と考える。
しかし、「百一発目」には捨て身の反撃が始まるであろう。
今が何発目なのか、彼等は数えたことがあるのだろうか。
日本人は我慢強いが故に、逆境においても諦めない。既に多くの日本人の心の底に、青白い炎が燃えている。鈍感な彼等には見えないだろうが、日本人同士にはよく分かる、「あの炎」である。
今ならまだ間に合う。得意の捨て台詞と共に、国交断絶でも何でもやればいい。それを笑顔で見送る余裕はある。最後の一線だけは越えるな、越えてくれるな。
その一線は、我々にもよく理解出来ないものなのだ。しかし、それは確実に存在する。無気力の象徴のように見える若者にも、希望を失った老人にも、井戸端会議に熱心な主婦にも、昼飯代が心配な貧乏サラリーマンにも、越えることを許さない一線がある。外国人には理解しがたい独特の「スイッチ」がある。その一線を越えるな、そのスイッチを押すな。誰か彼等に教えてやってくれ。
昭和27年4月28日、主権回復の日
平成20年4月26日、主権消滅の日
我々は長野のことを忘れない。次は東京で同様のことが起こるだろう。
彼等は確信犯である。周到な計画の下にやっている。
それが何を意味するのか。日本国民は遂に理解するだろう。
滅びるのはどちらか、その時、初めて明らかになる。
そして、新たなる「主権確立の日」がやってくる。
さて、「あなたにとって」今は何発目か?
”-
国民は静かにカウントダウンを続けている:夕刻の備忘録
(via syunin)