875 名前:名無しさん@十一周年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 15:12:11 ID:mHCowele0 [20/24]
さあ日本狂産党の歴史を再確認だ
当時の我が国の狂産党は旧ン連狂産党と厨国狂産党の革命路線に追従していました。
ですから在日狂産主義者は、わが国の狂産党の指令、
即ちン共と厨共の指令に従(したが)う体制内にあったといえます。
この構図の中で北東アジア狂産主義革命の「武装闘争」が決行されていた。
即ち北弔鮮と姦国と我が国の狂産主義武装革命闘争は、スタ○リンを中心に実行されていたといえます。
スター○ンが、北東アジアで最初に占領支配したのが北弔鮮でありました。
信託統治の名目で旧ン連占領軍は北弔鮮を衛星国、即ち植民地にしたのであります。
旧ン連の植民地となった北弔鮮の首領になったのが、ス○ーリンの命を受けていた金成○であります。
金○柱は、○ターリンの秘密指令を受けて北弔鮮だけではなく、姦国、そしてわが国を含めた
北東アジア狂産党の地下組織と思われる北弔鮮「遡国戦線」のドンでもありました。
しかも後に弔鮮総連が結成され、初代議長になる韓○銖は、「遡国戦線の中央委員」でありました。
秘密組織である「遡国戦線」の全容が解明されれば、すべての謎が解き明かされると断言いたします。
私は、「遡国戦線」の「遡国」とは「北東アジア」であり、「戦線」とは「占領」だと解釈して、その全容解明に関係しております。
249 名前:名無しさん@十一周年[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 16:11:59 ID:cbSHRNml0 [2/30]
»246
戦前から、日本共惨党のもとに多くの朝鮮人が集っていた。
例えば、共惨党系の労働組合の全狂(日本労働組合全国狂議会)は、
最盛時の1931年(昭和6年)ごろ、組合員数は3万人だったが、うち3割を朝鮮人が占めていた。
1945年(昭和20年)、敗戦の年の10月、徳田○一ら共惨党幹部が、府中刑務所を出獄した。
その際、<歓迎 出獄戦士 万歳>の幔幕を掲げ、熱狂的に出迎えたのは、数多くの朝鮮人だった。
その後、催された歓迎大会の会場を設営したのもまた朝鮮人党員である。
彼らが待ちわびていたのは、獄中15年の不屈の闘士、金○海であった。
金天○は在日朝鮮人から圧倒的な支持を集めていた。
その年の11月、共惨党は再建の第一歩として、第4回党大会を準備するため、全国狂議会を開催する。
全国から300人の代議員が東京・代々木の本部に集まり、行動綱領草案、規約草案、日本共惨党の当面の政策を採択した。
さらに、1カ月以内に第4回党大会を開催することも決定する。
その準備委員に選任されたのが、徳田球○、志賀○雄、袴田里○、金○海、宮本顕○、黒木重○、神山茂○の7人だった。
この名簿順位は、当時の党内ランクを示している。
会議では、金○海を責任者として、朝鮮人部を設置することも決めた。
実は、日本共惨党の再建資金のほとんどは、当時の在日組織である弔連(在日本弔鮮人連盟<弔鮮進駐軍>)が提供している。
このことは、党史には一行も触れられていない。
”- 丁寧語とか、礼儀正しく書いてみる日記2: 9/6 元祖テロ党 アカ狩りしませんか (via s-hsmt)