いや、わたくしは経営者とその雇用する労働者が価値観を共有することを否定しているわけではないし、労使が価値観を共有する中で一つの目標を実現していくということも、一つの理想像として評価はします。
しかし、
こういう「価値観の共有」を見せられると、ねえ。
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1009/03/news008.html(なぜ経営者は「社員と価値観が共有できている」とウソをつくのか by [吉田典史,Business Media 誠])
>2年前の今ごろ、私は後味の悪い取材をした。それは、躍進する中小企業の経営者へのインタビューだった。その社長は、1時間30分の取材時間中に10回ほど、「価値観共有」という言葉を使った。
「その価値観とは何か?」と尋ねると、明確な返事は返ってこなかった。ただ、「小さな会社は社長と社員が意識を1つにすることが大切」と繰り返すだけだった。私が疑問を感じたのは、「社員と価値観を共有できるかをどのように判断するか?」と聞いた時の回答だ。
「新卒の採用試験の時は、最終面接で私の前で大きな声を出してもらう。試験場にはイスがあるが、それに乗って立ち上がり、『●●さん(社長を指す)が好き』とか、『●●社にお世話になります』と大声で言えたら、その人とは価値観が共有できている」――。
私には、信じられなかった。これは、「私の命令に従う人こそが、価値観を共有できている」と答えているように思えた。
この会社は就職人気企業になっており、大卒の受験生は数百人に及 ぶという。内定者はわずか数人で、倍率は非常に高い。内定者は最終面接で本当に絶叫をするようだが、私にはそれは不況の影響もあり、内定を欲しいがゆえの 行動にしか見えなかった。大学生が気の毒にすら、思えた。
価値観の共有とは、両者が力関係において一方的な権力をふるえるような上下関係にない場合に初めていえることです。
もちろん、労働者側がきちんと自分たちの利害を主張できる状況にあった上で、その対等の関係の上で、価値観を共有するということは十分にあり得ますし、それは組織として望ましいことでしょう。
しかし、絶対的権力者が絶対的服従(せざるをえない)者と価値観を共有するとは一体どういうことなのか、この吉田さんのかいま見た事例は、大変雄弁に物語っているように思われます。
そして、雇用関係というものが、きちんとした労使関係によって担保されるのでない限り、このような権力関係であり得るということに対する想像力の絶対的に欠如した人々の言説のどうしようもなさというものも、ここから浮かび上がってくるように思います。
>この会社は、人事制度も同じ価値観で行っている。社長が50~60人の社員の査定評価をするというが、本人いわく「評価基準はない」と答える。それでも査定が行われ、社員の間で差が付けられる。それが賞与などに反映されるそうだ。
私には、その意味が分からない。評価基準がなくて、評価ができる のだろうか。そこに社員らの不満はないのだろうか。こういう疑問を投げかけると、社長は答えた。「みんなで価値観が共有できていれば、問題は起きない」。 私には、この言葉は「経営者である自分の言うことにはすべて従え」と言っているようにしか思えなかった。
”- 社員が経営者と価値観を共有するということ: EU労働法政策雑記帳 (via ssbt) (via otsune)